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読書メモ

2017年8月21日 (月)

『免疫の意味論』  多田富雄  青土社

 20年ほど前に出た免疫の名著。そのころ私は、関節リウマチを発症したばかりで、免疫について知りたくて読んだ。とてもおもしろかった記憶があるが、理系ではないのでよく理解できないことも多かった(今でもそうです…)。
 20年たって、また読み始めたのには理由がある。私のリウマチはよくなったが、なぜか周囲にシニアの患者が、何人も出てきたのである。原因はいまだに不明なはずだが、どうしたというのだろう。
 この本は免疫をかなり巨視的に描いたもので、○○病の治療のような話は、ほとんど出てこない。また20年の歳月の間に新たな発見があって、どこかに加筆訂正が必要な可能性もあるのかもしれない。それでも免疫が、「自己」と「非自己」を峻別するシステムであることには、変わりないだろう。

〈…そもそも「自己」とは何なのか。これほど神経質なまでに「自己」と「非自己」を区別する必要が本当にあったのだろうか。「自己」と「非自己」を区別するような能力は、どこで何が決めているのだろうか。その能力に破綻が生じた場合何が起こるのか。「非自己」の侵入に対して、「自己」はいかなる挙動を示すのか。
 こうした問題こそ、現代免疫学がいま解析の対象としている問題である。分子や遺伝子を扱う現代生命科学の最前線にいるにしては、ずいぶん大ざっぱで、ほとんど形而上学的な問題ではないか

 病気であろうとなかろうと、理系であろうと文系であろうと、生きている以上、心惹かれるテーマと言えるのではないだろうか。

 老化、アレルギー、エイズ、癌、自己免疫疾患についても、それぞれ1章が与えられているが、こうすれば治るとかいう話ではないので、免疫の精緻なシステムについて深い驚きを感じながら、また著者の明晰で馥郁たる文章に導かれながら、やっとの思いで読んでいる。

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(著者は2010年に惜しまれながら亡くなりました。2001年に脳梗塞で倒れ声を失い、右半身不随になりましたが、文筆活動は旺盛なままでした。リハビリ期間を限るとした厚生省に、激しく抗議し反対運動をしたことは有名です)

2017年8月10日 (木)

『古文書講師になれました──わたしの独学体験』  宇野藍子 柏書房

 まさか、講師になりたいわけではないし、なれるわけでもない。でも、日本史も国文学も縁のなかった著者が、どうして独学で古文書学習を続けられたのだろう? そこに興味があった。著者はもともと理系で、銀行員やPC講習の講師などをしていた人である。もともと、どんな形であれ文字自体に興味を惹かれるタチだったようで、15年をかけて講師が務まるほど勉強した。主にNHK文化学園の通信講座で学び、いくつものコースをマスターしてから、論文を提出し講師資格を得たそうである。
 なぜ長く独学が続いたのか、著者はこう書いている。

古文書の独学はなんら人の役に立ちそうもないし、なんらお金にもなりません。反転して考えると、実際的な事柄からの一切の解放を、直感的に感じとったのだと思います。もしかしたら、古文書の学習というのは、日常のさまざまなストレスにさらされ続ける現役世代のほうがむしろ向いているのでは? とさえ思います

 現役でなくてもストレスが多いのが現代だ。私も版本に並ぶにょろにょろした文字を見ると、たしかに安らぎを感じることがある。過去の声がかすかに聞こえてくるのである。それだけでいいのかもしれない。

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2017年8月 4日 (金)

『中島敦全集』 全3巻  ちくま文庫

 奈良からの帰りの新幹線の中で、iPadの青空文庫で「李陵」を読んだ。すごく久しぶりで、最初は漢文調がきつかったがやがて慣れて、しみじみいいなと思った。それでネットで検索して、この文庫版の全集がうちにやってきたのである。モダンな印象のカバーの装画は土方久功。1942年、33歳で夭折した中島の、数少ない友人だった人である。

 中島敦は「山月記」などが長く教科書に載っていたせいか、古代中国を題材にした小説ばかりが有名だが、南海を舞台にした文章もかなりある。1940年に当時の南洋庁に就職したためだ。彼の代表作「光と風と夢」はR・.L.・スティーヴンソン(「宝島」で有名)の話である。またカフカをドイツ語で本格的に読んだ最初の人だともいわれている。

 中島の小説に漂っているのは、孤独に対する覚悟のようなものだ。それが時代を超えて感銘を与えるのだろう。幼いときに母が3回も替わったのが影響しているのだろうか? 漢学の一家に生まれたから、漢文調の硬い文章も多いが、明るいモダンな小品もたくさんあって、夏の間楽しめるだろうと期待している。

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2017年7月 9日 (日)

『古事記を旅する』  三浦佑之  文春文庫

 今朝は朝から30度を軽く超していた。猛暑日になるに違いない。出かけるのはやめて、旅行記を読むことにした。この本は古事記ゆかりの各地を、カメラマンの大海氏と弥次喜多道中のように、2人で一緒に回って書かれたものである。ちなみにこういう本は、著者がひとり(編集者つきかも)で回って、後で適当な写真を添えて作ることが多い。
 古事記に詳しくなくてもわかるように、三浦氏は親切なうえに文章がうまい。まず九州・沖ノ島から日本海を、山陰を通って能登半島、内陸に入って糸魚川から諏訪までが第一部。高千穂から瀬戸内海を経て、熊野、伊勢、太平洋岸を通って房総までが第二部、難波から奈良を通り宇治川までの第三部。何といっても、日本海ルートと奈良盆地の話がおもしろい。昔は日本海側が主な交流ルートだったのがよくわかる。大陸から近いからである。
 わりにリベラルな立場からの古事記探訪記で、例えば明治以降の橿原神宮とか、あちこちに散見する「皇紀二千六百年記念」の石碑などには、けっこう冷淡だけれど、古事記の魅力を余すところなく伝える楽しい紀行書だと言えると思う。今度奈良に行くときは、ぜひ持って行こうと思います。

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(三浦佑之氏は古代文学者で1946年生まれ。作家・三浦しをんの父親でもあります。暑いけれど、どこか旅に出たいですよね。このところ母と娘が不調なことが多く、目下、夏籠りなのですが)

2017年6月 2日 (金)

『古事記を読みなおす』  三浦佑之  ちくま新書

古事記の続きで、これはバリバリの古事記学者の手になる本。八岐大蛇は出雲を流れる斐伊川になっている。こうした本を読むのは実は初めてに近く、知らないことが多く出てきて、それだけでも興味深かった。
 出雲神話は、どうして古事記にあって、日本書紀にないのだろうというのが、私の最初の素朴な疑問である。私はどうも出雲系の人々の末裔らしいので、気になるのである。

・・・国譲り神話から読めてくるのは、古層として存在した日本海文化圏の崩壊という出来事です。天皇家を中心としたヤマト王権が介入することによって、日本列島に存在したさまざまな交流や交易は、ヤマトを中心とする秩序化された関係に置き換えられていきました

 そうだったのかと深い感慨に浸った。出雲は当時、ヤマトに対抗する最大の勢力であったらしいことは、日本史オンチの私でも知っている。
 また、文学書としての古事記の成立については、

音声によって語られる叙事詩を成長させる前に、外から文字が渡ってきて散文文学が成立してしまった。そのために、芽生えかけた叙事詩は書かれる歴史へと方向を変えてゆく。それが、古事記のような作品を編み出す理由であったのかもしれません

 この後、最終章で、有名な太安万侶の序とは何だったのか、古事記の本当の著者(書き手)は誰だったのか、ダイナミックな推論と提案があり、最後までドキドキする本だった。

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(著者は古代文学研究者で、歴史学者ではありません。私が楽しく読めたのはそのせいかも。でも古事記は日本書紀と並んで、戦前は「国体」を支える本でした。著者はもちろんそれを無視しているわけではなく、視野の広い古代史像を描いていると思います)

2017年5月24日 (水)

『火山で読み解く古事記の謎』  蒲池明弘  文春新書

 三輪で素麺を食べたら、古事記が気になってきた。これは南九州に鬼界カルデラを造った7300年前の巨大噴火が、古事記の基本を形成したという説の本で、たいへんおもしろい。たとえば八岐大蛇は、大山や三瓶山の爆発で出た溶岩流・火砕流であると言う。
著者がこうした考えを得たきっかけは、2011年の大震災。日本は火山と地震の国で、そのことが歴史や精神文化に、決定的な影響を与えているに違いないと思ったそうである。もちろん地学的な証拠を積み重ね、現地調査もしての論である。文章はきわめてわかりやすく、とても読みやすい。参考文献に名著の誉れ高い『火山列島の思想』(益田勝実・講談社学術文庫が上げられていて、これも読んでみたいと思った。

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(私の父方は出雲に縁が深く、それも読む動機となりました。そして昨今の風潮から、古事記についてこうした自由な論議をする本が、そのうち出版されなくなるのではないかと、少し心配になったこともあります)


2017年4月16日 (日)

笑える本

 桜も散ってしまい、なんとなく不調。疲れたのだと思う。楽しい本を抱えて、今日は少しお休みである。

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 左の『その他の外国語エトセトラ』(黒田龍之介 ちくま文庫)は、この著者が好きだからで、ずっと以前に読んだ『羊皮紙に眠る文字たち』(現代書館)のおもしろさは、今も忘れられない。専門はスラブ語だそうで、この本にもロシア語や東欧諸国語についての話は多い。でもそれ以外のほとんど世界中の言語が、話題となっていて、みなユーモアあふれる楽しい記述なのである。いわゆるトリビアものではないし、ツールとしての外国語習得の勧めの本でもない。日本語しかわからなくても、充分に楽しめる。著者の黒田氏は父親が噺家だとか。びっくりしたけれど納得できた。

 『怪盗ニック全仕事』(E・D・ホック 創元推理文庫)はアメリカのミステりー短編集。Book Offで見つけたもので、価値のないもの(たとえばプールの水とか)を専門に盗みを請け負う泥棒が主人公である。原作は1960年代後半だから、古いといえば古い。ミステリーはDNA鑑定と携帯電話の登場で、雰囲気が全然違ってしまったが、これはある意味、古きよき時代の物語である。このシリーズは人気があるらしく、短編集が何冊も出ていて、日本でも最近4冊目が出た。

(私は国文出身なので、英語などは高校まで、あらかた忘れてしまいました。第2外国語はフランス語、これも忘れた・・・。ただそのときの先生が、ソシュール言語学で有名な小林英夫氏で、授業の合間にノルウェー語の話などをしてくれて、言語学っておもしろいのかもと思った記憶だけが、鮮やかに残っています。そんなわけで、言語学者の本はたまに読みます。田中克彦もおもしろいですよ)

2017年4月 8日 (土)

『ぼくの東京全集』  小沢信男  ちくま文庫

 1927年に東京で生まれ、ずっと東京で暮らしてきた作家の、東京をめぐる文章を集めた文庫オリジナルである。内容は紀行・小説・エッセー・書評・俳句・詩などさまざま、60年以上にわたる作品群で、文庫編集者からの申し出で編まれた本らしく、作者は「東京の話もこれで最後だろう」と言っている。
 だいぶ以前に同じ作者の『東京骨灰紀行』を読み、紀行文の人なのかと思っていた。実際、最初に書いた散文の題は「新東京感傷散歩」で1952年、これを花田清輝に認められて文壇デビューしたらしい。しかしもともとは、現代詩人で俳句も作っていた。この「全集」には小沢氏の多面性がよく出ていて、どれもとてもいい。
 東京に住んでいても、東京に興味のない人は大勢いる。日本に住んでいても、日本に関心がない人だっている。それがあながち間違っているとは思わないが、クールでスマートな外見だけが好きで、愛国心を声高に主張するが、それを築き上げた歴史や文化には、何の関心も持たないというのは、やはりおかしいと思う。小沢さん、もう少し長生きして! もう一度、東京の土の下に眠る人々(神社に祀られるような偉い人でなく)の声を、伝えてください。

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あるじまた日永の散歩留守に候〉   小沢信男

2017年3月31日 (金)

『アプリで学ぶくずし字』   飯倉洋一・偏  笠間書院

 なかなか読めるようにならない「くずし文字」、KuLaという学習支援アプリがあるのは知っていたが、そのガイド本が出た。100ページに満たない小さな本だが、自分で学ぼうという人には朗報である。

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 KuLaは「クーラ」と呼ばれていて、Kuzushi-ji Leaning Applicationの略、無料のアプリでiPad、 iPhoneはもちろん、Android系のタブレットやスマホでも使える。「まなぶ」機能と「よむ」機能に加え、SNSで「つながる」機能があり、わからない字を教えあったりできる。パソコンでは使えないそうで、かわりに「みんなで翻刻」というサイトがあるそうだ。ちなみに私はiPadで使っている。
 学生が授業の合間や通学の電車の中で、ちょこちょこ勉強できるので好評と聞く。若返った気分で、楽しんでみよう。

 別の本(『くずし字で百人一首を楽しむ』 中野三敏)の帯で、かのロバート・キャンベル先生曰く。

文字を忘れた日本人よ、江戸の理解は平仮名から

 

 




2017年3月15日 (水)

『俳句の海に潜る』  中沢新一・小澤實  角川書店

 帯には「俳句はアースダイバーの文芸である」とあって、少し毛色の変わった本である。まだ前半しか読んでいないのだが、中沢節が全開で、彼が好きでない人には、ついて行けないかもしれない。

〈中沢 もしも俳句が時代に添って詠まれていくものであったとしたら、俳句じゃないじゃないですか。俳句は常に、今、ここにいる人間の外に行って、鳥になったり、動物になったり、死者になったりするわけだから。今、ここにある現実の中に一緒になっていって、それを言語化して「サラダ記念日」みたいになったら・・・それは俳句じゃないと思う

 中沢は俳句に潜むアミニズムを強調したいようである。それが現代日本に潜む古代的なものにつながると言いたいらしい。
 かつて村上春樹が、「結局、自分は今の日本を、現代的な都会の日本と、その底に流れる暗い古代を書きたいのだ」という意味のことを、どこかに書いていたが、思わずそれを連想した。もちろん私は中沢も村上も好きである。

〈中沢 和歌と俳句はどこが違うか。和歌は秩序を作る権力と一体で、その原理を壊さないで行われる芸術行為です。ところが俳句は、連歌もそうですが、結社の芸術です。つまり秩序を作っている意識から離脱して、自分の生存条件を限りなく自然に近づけていったところで発生する詩で(後略)、俳句自体が結社、こういう結社性を取り除いたら俳句はないと思います

 これも異論が出そうだ。困ったことに、俳人の小澤實が反論らしいことをしていない。今の結社が権力的でないとは言い切れないような気がするのだが、中沢は現実の結社とは違う次元の話、たとえば集合的無意識などを語りたいのだろうか。対談はここからまた別なところに流れて行く。

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(中途半端ですが、書評ブログを書くほどの腕はないので、ご勘弁を。続きはもちろん読みます。いずれまた)

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